『ありがとう浅野康彦さん』

(prologue)
 1990年2月6日午後6時9分、一人のジャズをこよなく愛した男が逝ってしまった。49歳というあまりに若すぎる死だった。
 浅野さんは、1940年東京に生まれ、少年時代よりジャズの魅力に取り付かれ、スナックを経営しながら、1978年国分寺に念願のライブハウス(アレキサンダー)をオープンした。

「アレキとの出合」
 私が初めてアレキサンダーを訪れたのは79年の夏だった。そのころの私は、まだ学生で、時々新宿の(タロウ)や(ピットイン)に行く事があった。しかし、アレキは他のライブと違った感じをうけた。それはおちついた店内の雰囲気と控え目なマスター(浅野さん)のためだったのだろうか。それは二十そこそこの私にとって大人びた感じの場所に見えたのかもしれない。
 私が浅野さんと親しくなったのは、私が開業して屡々アレキを訪れるようになってからだ。私はしぶいインストルメントを好んで聴きに行ったのだが、普段からあまり客の入りがいいとは言えない店内がそんな時には輪をかけて閑散としている。浅野さんは私の横にやってきて、「こんな良い演奏の時に、もっと聴きに来てくれるといいのにね。」と言うのであった。私も全く同感であった。一人で十人分ぐらい一生懸命聴こうと思った。

「AJFの事」
 82年の春、浅野さんや常連の客が音頭をとってAJF"ASSOCIATION of Jazz Friend"と言うクラブができた。毎月例会と称して、酒を酌み交わしジャズについて、あるいは諸々の話題を語り合った。同じ音楽同じ時を共有したジャズファンが親しくなれたのは浅野さんとアレキのおかげである。

「忘れられないミュージシャン」
 アレキと浅野さんを語ると忘れられない二人のミュージシャンがいる。ピアニストで作曲家の菅野光亮さんとブォーカルの鈴木博さんである。菅野さんは映画(砂の器)の作曲をはじめ数々の映画音楽・シャンソンや現代音楽と多才な人であった。AJFの例会に多忙な合間を縫って、(ジャンルを超えた音楽の楽しみ方)と称し、よっぱらい相手に音楽の形式や和声楽を語るのであった。一通り話終わり、「あなた方の耳は、チクワの耳だ。」と言って、最初から判っている徒労を嘆いて見せるのだった。そして、我々はその後のピアノの演奏をリクエストするのであった。そんな時も、いつも浅野さんは、隅っこの方で笑っているだけだった。
 「こいつの歌を聴いてくれ。」と菅野さんが連れてきたのが、鈴木博さんだった。二人とも朴訥な話し方で、音楽の方は、顔や口に似合わず滅法やさしかった。二人の息が合った様子は、男同士の友情に満ちあふれていた。こういう日は、アレキも珍しく大勢の客で盛り上がり、浅野さんの笑い声とかすれた口笛が聴こえてくるのだった。
 83年菅野さんが亡くなり、その一周忌のセッションがあった数日後、鈴木さんも亡くなった。浅野さんは、アレキの宝のようにしていたミュージシャンを続けて亡くしてしまった。

「アレキサンダー夜話」
 浅野さんは、ベテランのミュージシャンを大事にしていた。かつての名トロンボーンプレーヤーが義歯を入れて再起をめざし、度々アレキにやってきた事がある。私は、そのボロボロのプレーに我慢ができなかった。浅野さんは、少年時代からあこがれていたミュージシャンが自分の店へ演奏に来てくれる事に敬意を表し応援した。浅野さんの人へのやさしさとミュージシャンへの尊敬の気持ちが感じられる。
 また多くの新人も浅野さんとアレキから育った。今や押しも押されぬミュージシャンの初舞台がアレキであったりする。「浅野さんの所で使っているなら・・・」と、都心のライブからも声がかかるようになる事も屡々だった。
 浅野さんは、ミュージシャンに対して、けっして押しつけがましくなく、適切な評価とアドバイスを与えた。ミュージシャンに関するエピソードは、彼からたくさん聴かされ、また、この何年間かはともに経験させていただいた。もし彼が生きていたら、本人の口から語られ、あるいは文章にでも残されただろうが、それも今は夢になってしまった。エピソードといっても酒のつまみの笑い話かもしれない。演奏こそが命のジャズミュージシャンにとって、そんな話を持ち出されるのは迷惑な事かも知れないが、彼等の人間っぽさを感じさせてくれる話ばかりだ。

(epilogue)
 浅野さんは、ジャズを愛し、ミュージシャンをあいし、そこに集まる全ての人々をあいした。国分寺の片隅のライブハウスのマスターとして送った10年余りは、一人の人間が成しえないほどの大きな仕事であった。私は、ジャズの楽しさと、多くのすばらしい人々との出合を与えてくれた浅野さんとアレキに感謝の気持ちで一杯である。
  「浅野さんありがとう。」

1990年2月14日、記す。
加藤弘之


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